Since 1602
関門を望む、要衝の城
関門海峡に面した小倉は、陸海の交通の要衝として古くから砦や城が構えられた地。1602年、細川忠興が約7年をかけて本格的な城を築きました。1632年からは小笠原氏が234年にわたり治め、城下町と武家文化を育んだのち、近代には陸軍の拠点となり、1959年に市民の手で天守が再建されました。

1569毛利氏、現在の地に初めて城を築く
1602 – 1609細川忠興、本格的な築城。唐造りの天守
1632小笠原氏の居城となり、城下町繁栄
1837 / 1866たび重なる火災により天守を失う
1959市民の要望により天守再建
現在北九州のシンボルとして親しまれる
Chronology
年表
- 1600慶長5年関ヶ原の戦いの功により細川忠興が入封。中津城に入り、弟・興元に小倉を守らせる
- 1602慶長7年細川忠興が大規模な小倉城を築城し居城とする。城下町を整え、小倉祇園祭を興す
- 1612慶長17年宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島で決闘
- 1620元和6年細川忠興が隠居し中津城へ
- 1632寛永9年細川忠利が肥後国へ転封、小笠原忠真が入国(15万石)。以後234年、幕末まで小笠原氏の居城に
- 1634寛永11年宮本武蔵の養子・宮本伊織が小笠原家に仕官
- 1665寛文5年即非禅師が黄檗宗・広寿山福聚寺を創建
- 1788天明8年藩校「思永館」を創設
- 1791寛政3年家老・犬甘知寛による藩政の大改革(〜1802)
- 1837天保8年城内塩切場より出火、天守閣はじめ本丸を焼失
- 1839天保10年天守閣以外を再建(天守は再建されず)
- 1864元治元年幕府の長州征伐令(第一次)
- 1865慶応元年長州征伐令(第二次)。藩主没し喪を秘す、豊千代丸4才
- 1866慶応2年長州藩との戦闘。退却し企救郡境へ退く
- 1867慶応3年長州藩と講和、香春藩(田川郡香春町)へ
- 1869明治2年小笠原忠忱が版籍奉還
- 1870明治3年藩庁を豊津へ移す(豊津藩)
- 1871明治4年廃藩置県により小倉県を設置(のち福岡県に合併)
- 1877明治10年西南戦争。歩兵第14連隊が乃木希典に率いられ出征
- 1898明治31年陸軍第12師団司令部が城内に置かれる
- 1899明治32年森鷗外が軍医部長として小倉に着任(〜1902)
- 1933昭和8年陸軍造兵廠小倉工廠が開所
- 1945昭和20年米国駐留軍が城内を接収
- 1957昭和32年米国の接収が解除
- 1959昭和34年市民の要望により天守閣を再建、現在に至る
- 1990平成2年小倉城を全面改装
- 1998平成10年城内に小倉城庭園・松本清張記念館が開館
- 2002平成14年築城400年。3階からくりシアター等をリニューアル
- 2007平成19年2階「殿のくらし七不思議」リニューアル、屋根瓦を改修
- 2009平成21年天守閣再建50周年。マスコット「とらっちゃ」誕生
- 2013平成25年北九州市制50周年
- 2014平成26年耐震補強工事を実施
- 2019平成31年天守閣内装を大規模リニューアル(新展示・XR体験などを導入)
歴代小倉藩主(小笠原氏):忠真・忠雄・忠基・忠総・忠苗・忠固・忠徴・忠嘉・忠幹・忠忱。徳川家光より九州諸大名監視の任を託され入封し、 細川忠興は商工業の保護・外国貿易の奨励など城下の繁栄に努めました。
Architecture
唐造りと野面積み
Karazukuri
唐造りの天守
4階と5階の間に屋根の庇がなく、5階が4階よりも大きい——全国でもめずらしい「唐造り」の天守。城下からその特徴的な姿を望めます。
Nozurazumi
野面積みの石垣
自然石をそのまま積み上げた「野面積み」。加工を抑えた素朴ながらも豪快な風情が、築城当時の技を今に伝えます。
